敬愛する村松恒平さんの「達磨」という本について、今日は書きたいと思います。
【村松恒平 文章学校】http://www.hiden.jp/books/
もうこの本を読んだのは二ヶ月以上前なのですが、そのとき感じたものを言葉にするのに、時間がかかりました。ずっと「うんうん」と唸っていたわけではないのですが、心に引っかけたまま日々を過ごしていたように思います。
発想したそばから話が宇宙飛行しないように、今日は「心臓」というテーマで、この本について書いてみたいと思います。
僕は今年の夏に入院しましたが、部屋は相部屋でした。僕の隣のベッドはある大家族のおじいさんが使っていて、昼は面会で大賑わい、夜はいびきが凄いという有様でした。
もう、これは耳栓買わないと死ぬと思ったので(笑)、薬局で買ってきて夜はそれをつけて横になりました。
初めて使ったときは少し驚きました。隣のいびきだけじゃなくて、冷蔵庫の音も、看護師さんの足音も、みんな聞こえなくなったのです。そして、さあっというノイズみたいな音と、自分の呼吸音、心臓の音が聞こえてくるのでした。
心臓の音というのは、不思議です。ある時は非常に心安らぐものなのですが、ある時は不安を何倍にも増幅するのです。
横になっているので、心臓の動きは静かなものでしたけど、そのうちにだんだん手足がじわりと暖かくなり、力が入らなくなってきます。僕はリラックスしすぎて、ひどく不安になりました。今まで寄りかかっていたものが何一つなくなって、宙づりになったような気持ちになったのです。
はい、読者さんもここで宙づりです。脱線タイム、音楽の話をします。
心臓で僕がイメージするのは、ピアノ曲の同音連打という奏法です。同じ音をトントンと、ある時は単調に、ある時はリズミカルに叩くのです。
僕は、同じ音を何度も叩き続ける曲というのが好きです。ショパンの「雨だれ」という曲は柔らかなタッチでの連打が大変ロマンティックですし、リストの「ラ・カンパネラ」は非常に速く鋭い超絶技巧としか言えない連打が、畳みかけるような響きを起こすのです。
面白いのは、じっと同音打鍵を聞いていると、音が体の内側に染み込んでくるような気がすることです。演奏者が細心の注意を払って丁寧に打鍵し続けると、音が一つ響くたびに、だんだん深いところへ降りていくような気持ちになります。同じ音が響き続けるから、はじめて分かる微細な変化の感覚があるのです。
聴き続けていると、余計な音が聞こえなくなって、やはり体に力が入らなくなってきますね。
僕が達磨という小説を読んだときに感じたのも、それでした。とても静かな語り口のこの作品には、心臓の音や、連打されるピアノのような、独特の迫力があるのです。
この達磨には「その人」という、暗闇に座り続ける人が描かれています。読んでいる間、無闇に息ができなくなるくらい、それは本当に静かな光景なのです。
しかし、ですよ。ここが僕にとってこの作品一番面白かったところなのですが、「なんとなく分かる」のです。「ああ、こういう世界は確かにあるな」と。
自分がこんな静かな境地に立ったことは、たぶん一度もありません。いつも「あれもしたい、これもやらなきゃ」と頭を巡らして、入院でもしなきゃ音楽も聴かない僕です。「その人」の悟りなんて分かるはずもない。それなのに、まるで自分のことのように思えるのです。
その正体を、僕は「心臓だ」と思うわけです。
僕は、自分の心臓の音を知っています。耳でではありません。体に刻まれたものとして知っているのです。それは普段、完全に忘れ去られています。
しかし、忘れ去られたからといって、その重要性が薄れるわけではありません。僕がどんなに高度なもの(言葉など)を頭で扱っても、ベースにあるのは体ですし、心臓なのです。それは、生まれてからずっと僕と共にあったものなのです。
だから、分かるのです。忘れ去ってしまったかのような心臓の音も、耳栓などをして落ち着いて聴けば、ちゃんと「思い出す」のです。
「その人」が静かにたたずんでいる姿を見て、僕は自分の心臓の音を聞きました。それは、倫理的な言葉で説明するより、達磨の至った境地に近い表現なのではないかと推測します。僕は、自分がどこから来たのか、自分の本当の居場所はどこなのか、確かめたような心持ちがしました。それは、原っぱに寝っころがった時のように、何かと一体になったような、非常に自由な感じでした。
僕が以前掃除のアルバイトをしていたとき、こんなことがありました。
その夏の日は、病院の階段を掃除する仕事を、先輩と一緒にやりました。病院は基本的に快適なところです。でも、階段だけは空調も利いていない、蒸し風呂なんです。それを、8階からずーっと磨いて磨いて降りていくわけですよ。
二人で黙々と仕事をしながら、途中「このままいったら悟り開けますね」とか冗談を言いました。そこにあったのは、タオルで手すりを拭いたり、モップをかけたり、チリトリで埃を集める、規則的なリズムだけでした。
すべてが終わって吹き抜けの階段を下から見上げたとき、「ああ、随分凄いことをやってのけてしまった。そうか、もう終わらなくちゃいけないのか」と、しみじみしました。途中から、少しだけ楽しくなっていたのです。
さて、僕は「その人」が暗闇でなにを考えていたか知りません。でも、階段を一歩ずつ降りていった僕と、同じものを感じていてくれたなら、とても嬉しいのです。
僕の想像では、「その人」は「人はどう生きるべきか」なんて高度な言葉は、頭の中でさえ使わないのです。
ただ、自分の心臓の音を聴いたり、呼吸の音に耳を澄ませたり、弟子に語りかけるときの喉の感触を楽しんだり、青菜の味をじっくりと噛みしめたり――そういう気の遠くなるような同音連打を、圧倒的な密度でひとつづつ積み重ねていったのです。
そして、積み上げきったときに、何か大きな流れのようなものの全体を、一度に掴んでしまったのです。
それは水の出所を捕まえるために、海から出発したようなものです。だから、どんな川にでも帰ることができる。どんな人の心臓にも届く。空にさえ、登ることができる。
こんな目が眩むような自由を、何もない生活の中に垣間見ました。人間には、こんなことができるのか、と感動してしまいます。そして、書いてる人も読んでる人も人間だと思い出し、笑ってしまうのです。
僕は、文章を書くことで、自分が結構救われた経験があります。たぶん、悪いことではないと思います。
しかし、文というものは、自分一人しか救えないような小さなものではない、と僕は感じ始めています。達磨という本が僕にずいぶん響いてしまったように、人の身体を動かすような、恐ろしい運動を作り出せる可能性があるのです。
だから、丁寧に積み重ねていきたいです。
【村松恒平 文章学校】http://www.hiden.jp/books/
もうこの本を読んだのは二ヶ月以上前なのですが、そのとき感じたものを言葉にするのに、時間がかかりました。ずっと「うんうん」と唸っていたわけではないのですが、心に引っかけたまま日々を過ごしていたように思います。
発想したそばから話が宇宙飛行しないように、今日は「心臓」というテーマで、この本について書いてみたいと思います。
僕は今年の夏に入院しましたが、部屋は相部屋でした。僕の隣のベッドはある大家族のおじいさんが使っていて、昼は面会で大賑わい、夜はいびきが凄いという有様でした。
もう、これは耳栓買わないと死ぬと思ったので(笑)、薬局で買ってきて夜はそれをつけて横になりました。
初めて使ったときは少し驚きました。隣のいびきだけじゃなくて、冷蔵庫の音も、看護師さんの足音も、みんな聞こえなくなったのです。そして、さあっというノイズみたいな音と、自分の呼吸音、心臓の音が聞こえてくるのでした。
心臓の音というのは、不思議です。ある時は非常に心安らぐものなのですが、ある時は不安を何倍にも増幅するのです。
横になっているので、心臓の動きは静かなものでしたけど、そのうちにだんだん手足がじわりと暖かくなり、力が入らなくなってきます。僕はリラックスしすぎて、ひどく不安になりました。今まで寄りかかっていたものが何一つなくなって、宙づりになったような気持ちになったのです。
はい、読者さんもここで宙づりです。脱線タイム、音楽の話をします。
心臓で僕がイメージするのは、ピアノ曲の同音連打という奏法です。同じ音をトントンと、ある時は単調に、ある時はリズミカルに叩くのです。
僕は、同じ音を何度も叩き続ける曲というのが好きです。ショパンの「雨だれ」という曲は柔らかなタッチでの連打が大変ロマンティックですし、リストの「ラ・カンパネラ」は非常に速く鋭い超絶技巧としか言えない連打が、畳みかけるような響きを起こすのです。
面白いのは、じっと同音打鍵を聞いていると、音が体の内側に染み込んでくるような気がすることです。演奏者が細心の注意を払って丁寧に打鍵し続けると、音が一つ響くたびに、だんだん深いところへ降りていくような気持ちになります。同じ音が響き続けるから、はじめて分かる微細な変化の感覚があるのです。
聴き続けていると、余計な音が聞こえなくなって、やはり体に力が入らなくなってきますね。
僕が達磨という小説を読んだときに感じたのも、それでした。とても静かな語り口のこの作品には、心臓の音や、連打されるピアノのような、独特の迫力があるのです。
この達磨には「その人」という、暗闇に座り続ける人が描かれています。読んでいる間、無闇に息ができなくなるくらい、それは本当に静かな光景なのです。
しかし、ですよ。ここが僕にとってこの作品一番面白かったところなのですが、「なんとなく分かる」のです。「ああ、こういう世界は確かにあるな」と。
自分がこんな静かな境地に立ったことは、たぶん一度もありません。いつも「あれもしたい、これもやらなきゃ」と頭を巡らして、入院でもしなきゃ音楽も聴かない僕です。「その人」の悟りなんて分かるはずもない。それなのに、まるで自分のことのように思えるのです。
その正体を、僕は「心臓だ」と思うわけです。
僕は、自分の心臓の音を知っています。耳でではありません。体に刻まれたものとして知っているのです。それは普段、完全に忘れ去られています。
しかし、忘れ去られたからといって、その重要性が薄れるわけではありません。僕がどんなに高度なもの(言葉など)を頭で扱っても、ベースにあるのは体ですし、心臓なのです。それは、生まれてからずっと僕と共にあったものなのです。
だから、分かるのです。忘れ去ってしまったかのような心臓の音も、耳栓などをして落ち着いて聴けば、ちゃんと「思い出す」のです。
「その人」が静かにたたずんでいる姿を見て、僕は自分の心臓の音を聞きました。それは、倫理的な言葉で説明するより、達磨の至った境地に近い表現なのではないかと推測します。僕は、自分がどこから来たのか、自分の本当の居場所はどこなのか、確かめたような心持ちがしました。それは、原っぱに寝っころがった時のように、何かと一体になったような、非常に自由な感じでした。
僕が以前掃除のアルバイトをしていたとき、こんなことがありました。
その夏の日は、病院の階段を掃除する仕事を、先輩と一緒にやりました。病院は基本的に快適なところです。でも、階段だけは空調も利いていない、蒸し風呂なんです。それを、8階からずーっと磨いて磨いて降りていくわけですよ。
二人で黙々と仕事をしながら、途中「このままいったら悟り開けますね」とか冗談を言いました。そこにあったのは、タオルで手すりを拭いたり、モップをかけたり、チリトリで埃を集める、規則的なリズムだけでした。
すべてが終わって吹き抜けの階段を下から見上げたとき、「ああ、随分凄いことをやってのけてしまった。そうか、もう終わらなくちゃいけないのか」と、しみじみしました。途中から、少しだけ楽しくなっていたのです。
さて、僕は「その人」が暗闇でなにを考えていたか知りません。でも、階段を一歩ずつ降りていった僕と、同じものを感じていてくれたなら、とても嬉しいのです。
僕の想像では、「その人」は「人はどう生きるべきか」なんて高度な言葉は、頭の中でさえ使わないのです。
ただ、自分の心臓の音を聴いたり、呼吸の音に耳を澄ませたり、弟子に語りかけるときの喉の感触を楽しんだり、青菜の味をじっくりと噛みしめたり――そういう気の遠くなるような同音連打を、圧倒的な密度でひとつづつ積み重ねていったのです。
そして、積み上げきったときに、何か大きな流れのようなものの全体を、一度に掴んでしまったのです。
それは水の出所を捕まえるために、海から出発したようなものです。だから、どんな川にでも帰ることができる。どんな人の心臓にも届く。空にさえ、登ることができる。
こんな目が眩むような自由を、何もない生活の中に垣間見ました。人間には、こんなことができるのか、と感動してしまいます。そして、書いてる人も読んでる人も人間だと思い出し、笑ってしまうのです。
僕は、文章を書くことで、自分が結構救われた経験があります。たぶん、悪いことではないと思います。
しかし、文というものは、自分一人しか救えないような小さなものではない、と僕は感じ始めています。達磨という本が僕にずいぶん響いてしまったように、人の身体を動かすような、恐ろしい運動を作り出せる可能性があるのです。
だから、丁寧に積み重ねていきたいです。
